2004年3月1日 プレス技術 
 
―伊藤製作所が得たフィリピン進出6年間の教訓とは!―

(1)はじめに

 21世紀はアジアの時代である。3年を経過した今も着実にこのアジア時代の壮大なロードマップは描かれつつある。
 かつて、日本を先頭にシンガポール・台湾・香港・韓国・ASEAN等がV字型に飛ぶ美しい雁の群れに見立てて呼んだ"雁行型"アジア経済の発展は、21世紀に入ると大きな転換点を迎えた。それは戦後50数年にわたってアジアをリードしてきた日本だが、失われた10年である90年代から未だに展望を見出せないまま、その凋落が目立ち始めた。逆に中国の躍進振りがアジア地域で注目されてきた。
 日本の電気電子産業・自動車産業は、アジアローカルの製造業が少しずつその技術力・経営力を高めてきていることを睨みながら、現地調達率を大幅に上げることと、場合によれば現地企業の育成にまで乗りだしてきている。
 この"空洞化"現象による影響は仕事量の減少に現れ、わが国の中小・零細製造業に時間とともに"悲鳴"を伴い始めて来た。
 中小製造業がグローバル化に対応できるかどうか。素晴らしい技術力さえあれば、零細企業も生き残れるとかつては信じられてきた。しかし、それも余程のノウハウと大企業にもない開発力がないと生き残れなくなってきた。
 今回、フィリピンというASEANではあまり注目されないアジアの国に進出した伊藤製作所の事例を追いながら、社長の考え方を含めて、その海外進出の実態の一部を紹介する。


(2)強要された中小製造業のアジア展開の背景


 日本国内だけで製造業を営めることは、中小企業にとって普通であった。今も営むことは出来るが、その背景は大きく変化してしまった。
 円高という為替の変動により自動車・電気電子産業等が海外展開を余儀なくされてしまったことや、日本の大手企業がアジア地域をその製造基地としてアジアNIEs(シンガポール・韓国・香港・台湾)やASEAN(タイ・マレーシア・インドネシア・フィリピン等々)に拠点を設け、現地調達・現地教育化を図ったことから、アジア各国の製造技術のレベルが日本の並みの中小企業なら相手にならないくらいの水準に達してしまい、国内調達率がどんどん減少してきたことが、深刻な倒産や廃業を生んでいる。
 この中小製造業の中でもこのような厳しい状況に危機感を抱き、大手企業の要請に強要される形か、積極的とは言えないが独自でビジネスチャンスを求めてアジアの各国に進出した企業群がある。特に最初は電気産業がアジア地域の安い人件費を求めて出ていったが、最近はタイを中心に自動車産業関連企業進出ラッシュが始まった。

中小企業でも海外に出られるのは、100名前後かそれ以上の大手に属する製造業が中心で、資金的な余裕や技術力を伴わない所は無理だと言われている。
しかし、基本的な経営力はビジネスチャンスを自社の実力にどのように適合できるか或いは適合させるかという判断により、企業の存亡が決まる。日本だけで経営できた20世紀における中小企業が、21世紀が近づくにつれ、グローバル化の波に大きく乗せられ、21世紀に入った現在は、その波に沈没するか乗り切れるかという瀬戸際に立たされてしまっている。アジアが21世紀の世界のビジネスチャンスを一手に引き受けできる状況が出てきた中で、中小企業といえどもその機会をどのように位置つけるか?という問題は、少なくとも企業規模は問われない。経営者の"意思"だけが問われるのではないか。

(3)伊藤製作所はなぜ、フィリピンだったのか

 伊藤製作所がどのような会社なのかは、表1に概要を示す。これから述べる内容は伊藤社長から、フィリピンに於けるビジネスのきっかけとその展開について、インタビューにより得たものである。

1)海外に眼を向ける動機
  伊藤製作所は、精密プレス加工を得意とする企業として60年のキャリアを有している。単にプレス加工だけではなく、しっかりとした金型設計・製造技術も持ち、CAD/CAMによる金型の自動設計、NC工作機械を早くから駆使して経営の高度化を図ってきた。
  ところが日本の大きな政治経済の転換点となった1985年のプラザ合意以降、日本の企業は図1のように海外生産比率は上昇し続けている。伊藤製作所もある程度の利益は確保できているものの、この影響で受注量と受注単価は毎年確実に減少・低下してきた。
  アジア各国政府は、輸出加工区の建設や税金の減免等外資の進出を促進するインセンティブにより、日本企業・欧米企業の誘致合戦を繰り広げてきた。日本の中小企業でもオンリーワンと称する優秀な技術力を持った精密コネクター、ICリードフレームさえも海外生産に転じている。
  伊藤製作所も金型受注、プレス部品加工の受注のたびに、海外価格との競争のため、見積りを強いられているという。中小企業は「納期」、「品質」、「価格」という3つの条件をアジア相場と比較され、それを克服しなければ生き残りは難しくなってきた。
2)フィリピン進出のきっかけ
伊藤社長の海外進出の構想は、20年近く前に同社の魚網機構部品をタイで製造する準備をしていたが、この部門が不景気になり進出を断念した。8年前に再びタイ進出を考え状況を調査したが、その頃からタイでは土地価格の高騰、プレス工場への進出規制区域問題(金型製造は首都バンコクで税金の減免等の奨励策をしたが、プレス加工は数百km離れた場所)、優秀な管理職レベルの人材難等の理由で完全にあきらめてしまった。しかし、海外生産拠点先を探すことはあきらめたわけではなかった。
昔から家族ぐるみの友人であった中国系フィリピン人のLim氏に海外進出の意向を相談したら、彼の友人であるスタンフォード大学・MBA卒業のSy氏の紹介を受けてから、フィリピン進出がトントン拍子に進み、1996年12月に「イトーフォーカス社(I.F社)」を設立した。伊藤氏が会長、社長にはSy氏、上級副社長にLim氏、同社から副社長として加藤氏が現地駐在した。

(4)突然襲われた危機と合弁解消事件

1)合弁会社の加藤副社長急逝
1997年6月から合弁会社イトーフォーカスはマニラ市内で、Sy社長の倉庫を借りて事業が始まった。その創業から5年間というもの順調に成長して来たことから、業容拡大のため、合弁相手と綿密に協議の上で、マニラから南50キロに位置する輸出加工区(カーメルレイU)の土地(5,000u)を購入し、工場建設も決まっていた。この団地はPEZAと言われ、さまざまな恩典がある。企業の所得税が5年間は無税で、6年目より永久に5%で、材料や機械の輸入税もかからない。条件は加工部品の輸出を70%しなければならないが、同社の得意先は70%以上各国に輸出しているため条件はクリアしていた。
この新工場の建設は2年前から計画していたが、契約にこぎつけたのは2002年8月9日であった。伊藤社長、同社の現地合弁会社社長、建築設計者、建設会社の社長等が集まり和やかな雰囲気の中、契約のサインを済ませ30%の前金支払った。
危機はその直後に発生した。契約後から8日目、同社からマニラに副社長と駐在していた加藤氏が急逝したことだった。得意先に納期で迷惑をかけ、連日の残業や徹夜の過労から来る心筋梗塞だったという。加藤副社長は営業・設計・NC加工・プレス加工・品質・メンテナンスから人事・経理まで精通する優秀な社員であった。5年以上にわたり一人で合弁会社を切り回していたことに気を使って、伊藤社長は何度も日本から技術者の要員派遣を提案したが、一人でやりぬくことを希望し続けたという。伊藤社長は現地の全てを加藤副社長に任せるという、経営者としての「危機管理不足」が招いた今回の事故は、計り知れない多くの問題を積み残しことに大きな衝撃を受けた。仕事の流れや得意先と約束事など全く分からなかったからである。
2)新工場建設は頓挫するのか!
加藤副社長の急死が契約する8日早ければ、新会社建設は断念していたと伊藤社長は言う。絶大なる片腕を失い伊藤社長が一人で寂しく工事現場に行ったときなど、運転手の前で恥ずかしくも涙が止まらなかったこともあった。
次の駐在者を送り込んでも、打ち合わせすらできないこの会社を立て直せるだろうか。誰もが駐在を希望しなかったらどうなるのだろうか。加藤氏の予期せぬ逝去とは言え、新工場のスタートなどすべてが自分の責任である。社会に出て順調すぎるほどの37年間であったが、今回の出来事は伊藤社長の生涯で最大の危機となった。

多額の損金が発生するという問題もあり何度か撤退について自問自答を繰り替えした。また、得意先や取引先の要望、社員の悲しみとやる気を見ると、そんな感傷に浸る時間を与えてくるはずもなかった。
まず、早急に再スタートのための人選から始めた。営業課長の当時若干33歳という若い社員を副社長に決めた。それに入社3年しか経っていない、アメリカの大学を卒業した長男(26歳)を副社長の通訳として同行させた。この2名ではいかなる業務であれ経験不足は免れないことから、数年前に金型企業を廃業した友人でもある元社長に現地入りを依頼し3名を駐在員に当てた。
若い2人が首尾よく軌道に乗せてくれる期待と、そうでない場合の二の矢も準備をしていたが、4ヶ月ほどで品質問題、建設や移転、経理状況、新規従業員の採用などを含め完全にやり遂げてくれた。現地の管理者からは日本人に全ての報告が来るので、それを即決断しサインをしなければならない。駐在してたった半年で彼らは日本であれば5年分くらいの経験をしたのではないか。彼らにとっては計り知れない良い経験と勉強ができたこと、今となっては本当に良かったと考えている。

 5)合弁から独資へ

1) 合弁会社を休眠会社として、独資の新会社の設立
8月の不幸の直後から伊藤社長と常務の2人が頻繁に現地に滞在し、とりあえず緊急の問題の解決に当たり、10月より若い社員を駐在させた。合弁の相手だったフィリピン人の友人は、加藤副社長の急逝をきっかけとして、合弁の解消を持ち出してきた。それだけ合弁相手も加藤副社長の手腕を認めていたようで、同氏の不在にリスクを感じての申し入れだと伊藤社長は見ている。このように華僑との共同経営はドライそのものと言える。しかし、プレス加工の仕事は継続し、新工場に移るまでの部品生産の在庫を作るために、フル稼働をしてユーザーへの迷惑を最少限にとどめることも行った。
 その頃新会社の採用を進めたところ、とんでもない問題が発生した。当初、それぞれの従業員に事前の調査を行った結果、新工場へは30%しか行けないと言うので、その補充分は採用準備済みだったのに、今になって「全員が行きたい」といいだした。100%日系企業は彼らには願っても無い魅力なのである。そこで現地のマネージャーと相談し採用試験や面接など、外部のコンサルタントに頼むことになった。上司が恨まれないための方策としてとった措置だったが、なんとも気まずい雰囲気となり、結果的には30人の社員を選り移転先のローカルから35名を採用した。
2) 独資企業「伊藤製作所フィリピンコーポレーション(ISPC)
(ITO-SEISAKUSYO PHILIPPINES CORPORATION)設立
フィリピン・マニラから南50kmに位置するカーメルレイU工業団地は、写真のようにきちんと区画整理された美しい工場地帯である。この団地はシンガポールのエセンダス社という工業団地開発専門会社が開発したものである。
昨年、工場を訪問させていただいた感想は、新しいということはもちろん新鮮な印象を受けたが、建屋の中が明るく工場というより事務所の感覚であった。日系企業だけに5Sはきちんとしており、従業員も礼儀正しい挨拶や仕事についても無駄口をする様子も見えない。
ISPC工場は、2003年4月から本格的に稼動し始めた。伊藤製作所は自動車部品を中心に加工するプレス加工メーカーである。フィリピンでは年間8万台の自動車しか製造されていない。その8万台をトヨタ、ホンダ、ニッサン、ミツビシ、フォード、いすゞ、現代等が市場の獲得にしのぎを削っている。フィリピン特有のジプニーは日系自動車の中古部品をバラシて家族ぐるみで作り上げている。
同社は日系企業がカーオーディオ、クーラー、メーター等の部品をアジア地域の自動車メーカーへ納入するプレス部品を加工している。
このフィリピンは、タイやマレーシア、インドネシアと比べて、意外に有利な面があるという。例えば、確かに治安は良いとはいえない。そこが、中小企業として進出するメリットがある。特に自動車はタイがASEANの中心地となった。賃金の面、高級管理者の面、プレス部品加工の競合がない(順送金型を製造できる所がほとんど見つからない、系列のような縛りがない、営業力さえあれば、ASEAN地域に出ている日系企業から受注できる)、等々のビジネスチャンスが大きいということである。同社の主な取引先は富士通テン、デンソー、ホンダグループ、松下電器産業などだが、これから更に営業展開を考えているという。 
こちらでは順送金型の設計が可能で、技術レベルは日本サイドの50%くらいになってきた。一般の金型なら文句なくこちらで可能だが開発型・複雑形状の金型は今一歩という所である。伊藤社長はフィリピンでの金型設計部隊をもっと充実することを考えており、優秀な設計者ならいつでも採用し、日本で教育して戻したいという姿勢。
現在の業績は、2002年6月から2003年の5月まで、合弁の解消や新工場建設等の関係で、稼働率は30%と大幅にダウンしていまい、毎月100万円くらいの欠損が出たが、日本サイドからバックアップして持ちこたえてきたと言う。2003年の7月から稼動も50%と順調に復活してきたので、売上げの20%の利益が出てきた。多分、2004年の早々には合弁時代のような成績を確保できるという。

(6)結び

この取材は、2003年8月にフィリピンでアジア金型協会(FADMA)理事会に参加したときに、出来たばかりの新会社(新工場)を見学させてもらった。たまたま伊藤社長も現地におられたので、詳しくお話を伺うことが出来た。本社工場には50名の従業員がいるが、ここにはすでに人員規模から言えば越してしまった。日本の空洞化現象からみて将来、フィリピン工場が本社の利益率、技術力、営業力をしのぐようになるかも知れない。経営はマルチ思考・実行が必要だが、また、リスキーな面もあり緊張の連続であるが、今後を期待したい。