2005年4月 アジア・マーケットレビュー 
 

撤退の危機を乗り越えた
伊藤製作所フィリピン(ISPC)

 順送り金型、金属プレス部品加工などを行う伊藤製作所(三重県四日市市広永町)は1945年に同市で創業、当初は魚網機械や撚糸機械を製造していたが、1964年からプレス加工、金型製作に転業した。2代目経営者の伊藤澄夫社長は、取引先企業の多くがタイに進出したことから、95年にタイ進出を検討したが、タイにはすでに同業が多数進出、しかもバブル経済の最中、外資への投資恩典も減り、工場用地確保もままならない状態だった。そこで伊藤社長は同業の日系金属プレスの進出が皆無に近いフィリピンに着目した。当初は伊藤社長の旧知の中国系フィリピン人との合弁会社として、97年6月にマニラ首都圏マンダルヨン市のパートナーの敷地内に初の海外事業をスタート、プレス金型と部品生産を始めた。

 タイに比べ品質が良い金属プレスや金型の製造ができるところが決定的に少ないフィリピンでは、日本で取引がなかった松下電器産業のオーブントースター部品とか、富士通テン向けにはカーオディオのシャーシ、またトヨタ系やホンダ系の大手一次メーカーから予想以上の注文を獲得することに成功した。フィリピンのセブ島の輸出加工区にあるヤマシンの工場にはオイルフィルターの金属部品を船で配送している。同社は順送り金型が設計から製作できることを強みとしている。
 生産能力増強のため、新工場建設を決め、ラグナ州にある「カーメルレイU」というシンガポール資本が経営する美しい工業団地(輸出加工区)を契約した。マニラから南へ約60km、マキリン(Makiling)という山が工場の窓からも見えるきわめて風光明媚な場所だ。
 しかしこの工業団地で、新工場建設の契約金を支払った1週間後にあたる2002年8月17日、伊藤製作所から唯一の日本人として駐在し、全ての工場運営を任されていた副社長が心臓病で急死するという危機が発生した。伊藤製作所に同氏に代われる人材がいないと見たパートナーの中国系フィリピン人が台弁解消を申し入れてきた時点で、伊藤社長も同社の存続を迷った。しかし日本で営業課長をしていた若手の川崎剛司氏(かわさき・つよし、当時33歳)を副社長にして、.長男の竜平さんを通訳としてフィリピンに送り込むことで、なんとか危機を切り抜けようと伊藤社長は決断した。竜平さんは米国の大学を卒業し、技術現場の経験は4年程度だった。
 新工場建設を決めた頃、全社員に移動可能かを聞いて回ったが、3割はどしか移動に応じてくれないことが判明した。そこで、当時の従業員数は45人だったが30人を急遽新規採用した。しかし急いで採用したため、質の悪い社員も入ったことが当時の社内の暗さに
輪をかけた。合弁会社を休眠にして新会社設立のため、いったん退職金を全社員に支払った。当初は遠い新工場には行きたくないと言っていた社員のほぼ全員が「100%日本側が出資する会社になる」と知り、「再就職させて欲しい」と希望してきた。それまでの中国
式経営を、伊藤社長らが考えていた以上にフィリピン人社員は嫌っていたのだ。伊藤社長の長男がフィリピンに常駐することも社員の評価をよくした。
そして川崎副社長の英語力が高まった時点で長男を日本に帰国させている。


「中国には負けない」 決心をした川崎副社長

現在の伊藤製作所フィリピン社(ISPC、払込資本金2,000万ペソ(1ペソ約2円)は日本の伊藤製作所の100%出資。設立以来、フィリピン工場を率いる川崎剛司副社長は、伊藤社長がフィリピン進出当初から連れ歩いてきた切り札的人材。就任2年目だが、「単年度
の2004年から大幅な黒字経営に転換きせた実績から近く社長に就任させる」
と伊藤社長。
 川崎さんの父親はホンダに長く勤務されてからホンダ系部品メーカーの菊池プレスの経営者となり、さらに同社からの出向として現在は広州市におられ、広州ホンダにプレス部品を納めるAPAC社を経営している。金属プレスのプロである父親を持つ川崎剛司氏は、学生時代から父親の案内でホンダの鈴鹿工場を見学したこともある。地元の四日市大学で経済を専攻し、衣料関係の商社に入社して2年間ほど働いた。だが、やはりメーカーに入りたいと考え、伊藤製作所に転籍した。父親と伊藤澄夫社長が旧知の関係にあったことから、大学時代のアルバイトも伊藤製作所の四日市工場でやっていた。
また大学時代に、ホンダのエンジン組み立て工場でアルバイトしたこともあり、実姉がいる米国のオハイオに行った時も、父親のアレンジでホンダのオハイオ工場を見学するなど、モノづくりの世界の雰囲気は学生時代から知っていた。
 川崎さんは2004年の年末休暇を利用して、家族と一緒に初めて中国広東省の広州市に出掛けた。父親の設定で広州ホンダなどの工場などを見て回った川崎さんは「中国のスケールの大ききと発展の勢いを肌で感じることが出来ました。両親と共に広州のスタジアム
で、新年へのカウントダウンの標識と盛大な花火を見ながら、中国には絶好負けない、と決心しました。今年(2005年)からはきらに品質、スピードに重点を置いて、お客様により信頼される会社になります。フィリピンでは競争が少ないので、なるべく高く売るといったビジネスをしていたら中国に負けてしまう」という危機感を持った。
 マニラで伊藤社長に、「日本での業容よりフィリピン工場の方が上回る時代が来るのではないですか」と聞いた。伊藤社長は、「日本よりも規模は小さくても利益率はすでにフィリピンの方が大きく上回っています。将来の上場は十分あり得ますね」と即答した。

従業員を大切に

 ISPCではフィリピンの製造業としては珍しく全員が正社員。他のフィリピン企業では、半年までは正社員にしなくてよいという法律に基づき、半年間の派遣社員(契約社員)をまわすことで賃金上昇を抑えているところが多い。だがISPCは、少数精鋭主義で、少ない人数で仕事をこなす代わりに、社員に利益を分配する。現在の同社の大卒初任給は月給8,000ペソで一般ワーカーも含めた平均で月1万1,000ペソ(マネージャークラスは除く)。
 2004年9月に定期昇給として10%上げ、食事手当て20ペソも10ペソ上げて日に30ペソとした。マニラ地区の最低賃金が上がったので2004年7月に全社員の給与を一律30ペソあげ、トータルで18%の昇給となった。ワーカーレベルの最低賃金237ペソ〈1ペソは約2円、マニラ地区の最低賃金は300ペソ)。
ISPCの1カ月問の人件費は残業を含め160万円(日本人の駐在手当て含む)。
 「フィリピンの優位性はフィリピンでは中小企業でも優秀な大卒を必要なだけ採用できる点です」と伊藤社長が言うように、2005年3月現在、フィリピンの社員は65人で21人が大卒者。
 フィリピン人社員トップで女性のジェネラルマネージャーであるローズ・マリー・アンドリオンさんは2005年3月から昇給、6万7,000ペソになったとニコニコしている。また、プロダクション・マネージャーを務めるダニーロ・バガーラ氏(愛称ダン氏)はフィ
リピンの松下電器系工場など日系企業で働いていたが、新聞広告を見て同社に入社した。
 また「この女性がいなければ、会社が成り立たない」と伊藤社長がベタ褒めなのが33歳の独身女性で、CAD(コンピュータ支援設計)を担当するへディ・アギュレスさん。伊藤社長は「日本の工場では5年間仕込んでも、『できません』と泣きごとをいうに違いありません。しかしへディは仕事を覚えてすぐの時点から多くの金型図面を仕上げ、大手企業に納入してきましたが、何も問題を起こしません。限っからのメカ好きで、こんな女性は日本にはいない」と。
 へディさんはマニラのマプア大学でメカニカルエンジニアリングを専攻したが、伊藤製作所に入ってからは深夜の零時頃までCAD画面と取り組む日々も多い。父親は貧民街で育ったが、努力して資格を取得、フィリピンの電機大手のメラルコの主任技術者となり、現在では引退しているがアパートなども経営している。5人兄弟の真ん中として育ったへディさんは、「父も私も、好きな仕事ができてラッキー」という。
 他に、第2アセンブリラインのリーダーであるラリー氏、設計担当のローレンスなどIS PCの技術系幹部の多くがヘディさんと同じマプア大学の出身者である。
 日本にISPCの社員を派遣してひんばんに研修も行っており、7年ほど前から金型関係の3カ月間に渡る現場実習なども行っており、これら日本で研修を受けたISPCの社員はこれまでに14人に達している。
 伊藤社長自身が半日を使って実習を担当する他、夜には伊藤社長自身が手料理を作って振舞うこともあるなど、日本と同様家族的な会社であろうとしている。
 日本にISPCの社員を派遣してひんばんに研修も行っており、とくに日本の効率の良きを学ばせている。
 伊藤社長は三重県四日市市で1942年生まれ。立命館大学経営学部を卒業、さらに仕事をしながら名城大学工学部機械学科の2年生に編入した。しかし1967年、同大学の4年生だった頃に父親の工場で業務量が増えたので中退して伊藤製作所に入社して仕事に専念することにした。9年後の86年から現在まで同社社長。趣味が多いことで有名であり、航空機の操縦、クレー射撃、マジック、和弓、ゴルフのハンディキャップは7という腕前のマルチ社長。
 フィリピンに初の工場が稼動した頃に偶然、伊藤社長とフィリピンで知り合えた筆者だが、その後もフィリピンだけに留まらず、タイや広東省などでも伊藤社長にお目にかかっている。アジア各地の直接同社のビジネスに関係ない経済調査に一人で来られる伊藤社長と、アジア各地で筆者は出くわしてきた。2004年に伊藤社長は初の著書『モノづくりこそニッポンの砦』〈工業調査会発行)を出版、副題を「中小企業の体験的アジア戦略」として現職の中小企業オーナー経営者が自らフィリピンでの苦労や成功の裏話、中国、韓国、日本のモノ作りをどう見るかを率直に書いた。そこで忙しい社長業の他にも、伊藤社長は中京大学大学院MBAコースの客員教授を努め、母校の立命館大学などあちこちの大学、業界団体などでの講演会の講師として引っ張りだこ。最近はシンガポールでも講演したという。

 先日、フィリピンで旧知の川崎さんに電話して、久しぷりに工場を見たいと翌日のアポをとった。しばらくして川崎さんから電話があり「明日、開港した名古屋の新空港から伊藤社長が着ます」と言ってきたのには驚いた。
もちろん工場での会議などもあるのだが、私がフィリピンに居ることを川崎副社長から聞いた伊藤社長は筆者にも会いたいと飛んで来ていただいた。行動がきわめて早い社長である。
(アジア・ジャーナリスト 松田 健)